今月のおすすめ映画①『シンプル・アクシデント/偶然』
イランの名匠が描き出す、不条理で間抜けな復讐劇
家族を乗せて自動車を走らせる義足の男が、夜道で野良犬を轢いてしまう——。そんな小さな事故から世界はゆっくりと軋み、ひび割れ、やがてイラン社会に沈殿した暴力と腐敗が姿を現していく。ジャファル・パナヒ監督の『シンプル・アクシデント/偶然』は、珍騒動が巻き起こるおかしさを纏いながら、政治スリラーの鋭さを突きつける傑作だ。第78回カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いた。
物語の中心人物はかつて政治犯として、不当に投獄されて拷問を受けた男・ワヒド。彼は偶然出会った当時の憎き看守らしき人物を衝動的に拘束し、荒野へ連れ出す。激しい怒りに突き動かされるワヒドの姿は、過去にとらわれた人間の震えそのものだ。しかしIDカードに刻まれた名前は、恨み続けてきた相手とは違う。「この男は本当に“あの男”なのか?」——疑念が芽生えた瞬間、復讐劇はサスペンスからブラックコメディへ、さらに寓話へと転じていく。
『間違えられた男』や『ハリーの災難』を思わせるヒッチコック的ユーモアが、作品全体に奇妙な笑いと毒を添える。パナヒ監督はバンの荷室や砂漠、病院など、悪夢的なトーンで多様な空間を縫い合わせる。まるで国家という巨大な牢獄を旅するロードムービーのようだ。ワヒドと仲間たちは、義足の音や匂いといった曖昧な記憶を頼りに“看守”を特定しようとするが、露わになるのは彼ら自身の傷と暴力の連鎖の影である。
重い題材だが、劇中で言及されるベケットの不条理劇『ゴドーを待ちながら』に通じる気配が漂い、映画はユーモアを失わない。政府によって反体制的活動を理由に創作を制限されてきたパナヒが描くのは、復讐の成否ではなく、抑圧の記憶とどう向き合い、生き延びるかという普遍的な問いと言える。
『シンプル・アクシデント/偶然』
監督/ジャファル・パナヒ
出演/ワヒド・モバシェリ、マルヤム・アフシャリほか
2025年 フランス・イラン・ルクセンブルグ映画 1時間43分
5/8より新宿ピカデリーほかにて公開
※公開時期・劇場などが変更される可能性があります。
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今月のおすすめ映画②『サンキュー、チャック』
スティーブン・キング原作、世界の崩壊を前に人々は?
世界が崩壊へと傾く中、街を覆うのは「ありがとう、チャック」という謎めいた言葉——。スティーヴン・キングの短編小説をマイク・フラナガン監督が詩情豊かに映画化。主演のトム・ヒドルストンが人生の光を繊細に抱き締める。同じキング原作の『ショーシャンクの空に』や『グリーンマイル』に連なる、温かなヒューマンタッチが胸を打つ。第49回トロント国際映画祭観客賞に輝いた本作は、ゆらめく記憶が終わりゆく世界をそっと照らす物語だ。
『サンキュー、チャック』
監督/マイク・フラナガン
出演/トム・ヒドルストン、キウェテル・イジョフォーほか
2024年 アメリカ映画 1時間51分
5/1より新宿ピカデリーほかにて公開
※公開時期・劇場などが変更される可能性があります。
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今月のおすすめ映画③『スマッシング・マシーン』
あの「プライド」で活躍した、実在のレスラーの激動たる人生
日本が世界に誇る総合格闘技の祭典「プライド」の創成期を駆け抜けた王者、マーク・ケアーの激動の人生を、ドウェイン・ジョンソン主演・製作で描く実録ドラマ。兄ジョシュ(『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』)と組んできたベニー・サフディが初単独監督を務め、第82回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。格闘技映画の名作『レスラー』と響き合う屈強な男の裏に潜む脆さを映す注目作だ。本人役の布袋寅泰ほか、日本勢の出演も話題。
『スマッシング・マシーン』
監督/ベニー・サフディ
出演/ドウェイン・ジョンソン、エミリー・ブラントほか
2025年 アメリカ映画 2時間3分
5/15よりTOHOシネマズ日比谷ほかにて公開
※公開時期・劇場などが変更される可能性があります



