2026年ヴェネチア・ビエンナーレに7年ぶりに復帰したインド館に、伝統的な刺繍の技で造られた「家」が出現した。急速に変貌するインドからあえて距離を置き、「物憂げな美しさ」を追求する作品だ。
運河と造船の街に現れた幽玄の「家」
今年で第61回となるヴェネチア・ビエンナーレが、11月22日までイタリアのヴェネツィアで開催されている。
運河の街に2つ設けられた主会場のひとつ、旧造船所を転用したアルセナーレ・ディ・ヴェネツィア。薄暗く細長い展示空間を進むと、白い造形物が静かに宙に浮かんでいるのが目に飛び込んでくる。天井から吊るされた無数の糸で構成されるこの作品は、近づくにつれて窓や扉の輪郭が現れ、それが一軒の「家」であることに気づく。
現代美術家スマクシ・シン氏が糸で織り成す『Permanent Address(恒久的な住所)』だ。2026年のビエンナーレで、インドが7年ぶりに復帰した国家パビリオンを構成する5作品のひとつである。
1947年のインド・パキスタン分離独立で数百万の人々が故郷を追われるなか、シン氏の祖父母は難民としてデリーへ渡り、一軒の家を建てた。その実家を糸で原寸大に再現した作品である。
向こう側が透けて見えるほど糸は細いが、組み上がった家のかたちは揺るぎない。確かにそこに在るのに、触れれば消えてしまいそうな儚さが宿る。
シン氏の一族は、5世代にわたってこの家で暮らしてきた。だが祖父母亡きあと、無念にも家は取り壊された。インド発建築・デザイン誌のSTIRworldによるとシン氏は、「かつては堅固で、包み込むようで、永遠に思えたものが、いまやほとんど幽霊のように、記憶のなかの記憶のように映る」と、一家が過ごした家への思い入れを語る。
この家の再現に用いられたのは、女性たちが世代を超えて受け継いできた刺繍の伝統だ。透けるような繊細な白い糸を幾重にも縫い重ねることで、失われた実家の姿を再現した。
あえて壊れやすい素材で造った
シン氏の糸の家は、インド館を構成する5作品のひとつだ。館全体を見渡すと、ある共通点が浮かぶ。5人の作家がそろって選んだのは、土、糸、布、竹、張り子など、いずれも長くは残りにくい素材だ。
インド館のテーマは、「Geographies of Distance: remembering home(距離の地誌:家を記憶する)」。キュレーターのアミン・ジャフェル氏は、家を無機質な建造物ではなく、「文化や個人的な神話、感情が宿る内面の空間」だと捉える。
イタリアのデザインWeb誌であるデザインブームの取材では、「選ぶ素材が『家』を想起させるものでなければと考えた」と明かした。土の匂い、糸の手触り、竹のしなやかさ。感覚を呼び起こすこうした素材はいずれも、インドの暮らしや装飾芸術の伝統に深く根ざしている。
アーティストたちを追憶へと駆り立てたのは、急速に都市化するインドの現状だ。わずか一世代のうちに街並みが大きく姿を変え、伝統的な建築や工芸技術が開発の波にのまれていく。作家たちはこうした素材をあえて手に取ることで、消えゆく伝統の技に光を当てようと試みた。
来場者は館を巡りながら、「家」のさまざまな姿に触れることになる。足元に広がるのは、アルワル・バラスブラマニアム氏のアースワーク(天然の素材を用いた造形)だ。土と水が一体となり、やがて離れていくその痕跡を、自然にひび割れた地表が物語る。
ランジャニ・シェタール氏は、手織りの綿にスチールと漆を組み合わせ、宙に吊るして作品とした。硬い金属と柔らかな布が一つになった姿は、身を守る場所としての家の役割を、改めて深く認識させる。
中二階には、今回最年少での出展となった作家スカルマ・ソナム・タシ氏(27)による『Echoes of Home』がある。リサイクルされた張り子の素材や粘土で、故郷・北インドの高地ラダックの伝統的な集落を再現した。
「素材を再利用することで、ラダックの伝統建築の持続可能性と生態系の脆さの両方を想起させることができる」とタシ氏は語る。
マイナーキーが残す余韻
そして館の頂にそびえるのが、アシム・ワキフ氏が現地で組み上げた大型の竹のインスタレーション『Chaal』だ。インドの建設現場でいまも使われる竹の足場を思わせるその構造物を、ワキフ氏はあえて未完成の姿のまま展示した。
インド館のキュレーター、ジャフェル氏によれば、他の4人が「かつてあった家の記憶」をたどるのに対し、ワキフ氏のこの未完の足場は「インドが躍動感と前向きさをもって未来へ踏み出す様」を象徴しているという。足場とは、これから何かを建てるためにある。未完であることで、鑑賞者の視線をおのずと未来へ向けさせる趣向だ。
インド館の外に目を向ければ、今回のヴェネチア・ビエンナーレ全体を貫くテーマは「In Minor Keys(さまざまな短調で)」と設定されている。音楽の短調になぞらえ、静かで内省的な表現にスポットライトを当てる試みだ。
同ビエンナーレで史上初のアフリカ系女性キュレーターとなったコヨ・クオ氏は、このテーマを構想しながら開幕の1年前に急逝したが、遺志は会場に受け継がれた。
「短調には、かすかに取り憑くような美しさがある。どこか物憂げで、詩的な余韻をもって意識の奥に長く残る」と出展作家の一人、シン氏は言う。
糸でできた家、ひび割れた土、未完の足場。いずれも喪失や不在といった、明るいキーでは伝えきれないものを表現しようとしている。インド館の静かな雰囲気は、「短調」を掲げるこのビエンナーレ全体の方向性に静かに寄り添っている。
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A view of exhibits at the India Pavilion titled 'Geographies of Distance: Remembering Home' at the 61st International Art Exhibition of the Venice Biennale, in Venice - PTI pic.twitter.com/FqVNDGpSgK
— Deccan Chronicle (@DeccanChronicle) May 10, 2026