ジラール・ペルゴは、幕末の日本に伝えられた初のスイス時計として知られる。これをもたらした創業家のひとり、フランソワ・ペルゴの半生を探る第2回は、商館時計コレクターの大川展功に話を聞いた。ジラール・ペルゴの商館時計や残された資料、さらにスイス本社での調査を通してフランソワの人物像がより鮮明に浮かび上がる。
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日本に西洋時計を普及させた、“商館時計”に魅せられて
大川展功と時計の出会いは幼少期に遡る。小学校5年の時に祖母から贈られた古い懐中時計に目を輝かせ、仕組みを知りたいと分解してしまう。知識も技術もなかったが、遊びのように組み立てに熱中し、弱々しくもようやく刻み始めた針は天啓となり、蜜月の時は始まったのだ。以降、収集した時計は2万点以上に及び、それぞれの出自や仕様について詳細に調査研究を重ねる商館時計コレクターだ。
明治時代、外国商館で販売された懐中時計を商館時計という。この独自の制度であり、商習慣が日本の時計の普及にどのように機能したのか。大川は説明する。
「鎖国中、外国人とのトラブルがあってはいけないので、それぞれの開港場に居留地を作り、商館を設けました。船便で機械類をはじめ、衣服や装身具などを仕入れて扱う出張所ですね。百貨店や専門店があり、それぞれ切磋琢磨して商品を販売し、なかには時計専門店もあり、そこから商館時計が広まったのです」
しかし当時、時計は商材としては難しかった。彼が来日した幕末期の日本では、1日を24時間に分割した西洋式の時法ではなく、日の出と日没を基準にして昼と夜をそれぞれ6等分して「一刻」とする“不定時法”が用いられていた。昼と夜、また季節によって一刻の長さが違ってくるため、この不定時法下では西洋の時計は実用道具にはならず、珍重な嗜好品だったからだ。
「並べておくだけでは売れないし、品質はもちろん、注文したら納品を待たせないなど商売の基本がなっていなければいけません。なかでもいちばんの問題は壊れた時ですね。なにか支障があったら商館に持っていけば直してくれるという信用が大切でした。当然必要なのは修理のできる技術者や部品であり、それができないお店は在庫品と交換しましたが、それでは儲からず、自然に淘汰されていったようです」
商館は、西洋の技術や文化、伝統を取捨選択して日本に取り入れ、開国への足がかりとなった。優れた流通システムは、日本での時計の発展に寄与したことはいうまでもない。こうした商館時計で頭角を現したのが、フランソワ・ペルゴが扱うジラール・ペルゴの時計だった。
「いってみればフランソワの会社はジラール・ペルゴの総代理店であり、しかも本社は家族が営むのですから。納品や部品供給もスムーズだし、仕入れ代金の支払も融通が利いたと思います。もともと本人も時計師でしたから、客からの信頼は厚かったと思います」
大川が手にしたのは、フランソワが来日以前、アメリカでの駐在時に扱った懐中時計だ。文字盤にはH.PERREGAUX LOCLEと記されている。ジラール・ペルゴの前身であり、フランソワの実家がルロックルで営んでいたアンリ・ペルゴ商会の銘だ。

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スイスからアメリカ、そして日本へ。スイス時計の普及に奔走したフランソワ・ペルゴの生涯
1853年に市場開拓のためスイスからアメリカへと渡り、ニューヨークで支社を設立して奮闘していたフランソワ・ペルゴだが、59年にアメリカから戻ってまもなく、次なる新天地として目指したのが日本だった。大川は経緯をこう分析する。
「すでにアメリカでは鉄道網が広がり、正確な時計が必要でした。国土も広く、その需要に応えるには大量生産が求められ、一気に時計産業が花開きます。一方、スイス時計は手づりを主とした家内工業ですから、進出にはこれとは異なるアプローチが必要でした。さらに1861年に勃発する南北戦争前の不穏な空気もあったと思います。外国人であればなおさらのこと。フランソワの帰国はそんな背景があったのでは」
新たな販路拡大に白羽の矢が立った日本には、当時アメリカをはじめ、諸外国が開国を求めていた。詳細はわからないまでも時計はまだ普及しておらず、海外進出と輸出促進を目的に結成した時計連合会の一員として、帰国間もないフランソワは1859年に極東の国へと出帆したのだった。

苦難の末に日本に辿り着いたフランソワだったが、待っていたのはさらなる試練の連続だった。スイスとの修好条約の調印前だったため入国はかなわず、フランス人として来日。さらに不定時法もあった。これにはフランソワも本国に販路開拓は難しいと伝え、1863年には時計連合会も解散し、日本を撤退することに。
「危険な航海を乗り越えてやってきたのに、なにもできず、空振りだったのはフランソワ本人がいちばんがっかりしたでしょう。真面目で責任感のある人だったと思うんです。周囲から託された責任を重く感じ、尻尾を巻いて本国へ帰るという選択はしなかった。それに近い将来は時計も必要になるという確信もあったのでしょうね。そのためには、やはり日本人が好むような時計を確立しようと考えたに違いありません」
むしろ時計連合会という制約がなくなったことで発想は変わり、可能性が広がった。1864年に日本とスイスが修好通商条約の調印を交わすと晴れてスイス人として認められ、翌年フランソワ・ペルゴ社を創立した。
大きな挫折を味わい、不退転の思いから新たなスタートを切ったフランソワに、大川は思いを馳せる。
「それでも生身の人間じゃないですか。遠く離れた異国でただひとり、心細かったと思いますよ。貴金属を扱っていたことから強奪を恐れて、近所のホテルのビリヤード台の下で寝袋にくるまって寝ていたという記録も残っています。日本に初のスイス時計としてジラール・ペルゴを広めるという大志を抱き、ひたすら前進した立志伝中の人物というよりも私はそんな人柄に惹かれます」
フランソワの故郷ル・ロックルの生家を大川が訪ねた時、雨がポツポツポツと落ちてきたという。それは、日本から訪れたことを天のフランソワが涙を流して喜んだのでは、と回想する。
「なによりも日本が気に入っていたのではないでしょうか。保管されていた遺品には日本の枕や民具もあり、愛用品からもその心の内を伺い知ることができます。本人もだんだん日本人化してきたんじゃないですか。顔つきも当初はいかにも外国人でしたが、晩年の横顔は日本人みたいですからね」
そう言って大川は微笑んだ。
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日本を愛したからこそ生まれた、ジラール・ペルゴ独自のスタイル

シンプルな文字盤とは打って変わって、ガラスをはめ込んだシースルーバック構造に、ムーブメントは全面にエングレービングを施す。
フランソワは、日本人とのつき合いを通して、文字盤や指針など好まれるスタイルを厳選し、総合的に組み合わせて日本独特の形を考案していった。
「フランソワは、まず頭がよかった。しかもそれを広めたことに関してはもう敬意を表する他ありません。同じアジアでも一大市場だった中国では金のケースが好まれましたが、日本人は渋好みなので素材は銀を用いました。それに映える白文字盤はシンプルなローマ数字のインデックスに、スモールセコンドを備えます。西洋では2針が多かったのですが、これは秒を計るだけでなく、時計が動いているかも一目瞭然です」
そして裏を返せば特徴はより際立つ。
「裏蓋もシースルー構造にしてムーブメントをそのまま見ることのできる仕様になっています。バータイプのブリッジには精妙な彫りを施し、それも版で押したみたいな彫刻ではなく、日本人が好む植物や蝶などの模様を刀装具などを手掛ける彫金師が精根込めてひと彫りひと彫りしたような巧みな細工です。裏蓋をガラスにしたのは、精巧なメカニズムと動作、凝った装飾を楽しむだけではありません。銀の裏蓋は原料や製作にもコストがかかり、ガラスのほうが安価だったのです。しかも銀は銀貨などで一般的だったのに対し、ガラスは長崎や江戸、薩摩など名産地も限られ、憧れの的でした。豪華に見え、原価も安ければ一挙両得じゃないですか」
さらに白眉といえるのが鶴の頭を象ったアンクルだ。くちばしがガンギをつつくような動きは、まさに日本的な粋と遊び心にあふれている。
こうして日本でも受け入れられ、高く支持されたジラール・ペルゴだったが、フランソワは自身が生み出したスタイルをけっして独占しようとしなかった。そればかりかその仕様をスイスの同業者にもアドバイスしたという。
「新規参入した時計ブランドにも売れるための指南をしています。スイス人同胞ですから自分と同じ苦労や轍を踏ませたくないと気遣ったのでしょうね。後年の研究でもこうした功績は高く評価され、スイス時計史において日本への進出にはフランソワが考案した仕様が大きく貢献したと記録されています」
これを記した洋書を大川が初めて見たのは小学生の時であり、フランソワとの出会いはすでにそこから始まっていたのだった。
「僕はフランソワを尊敬しています。会ったこともないし、話したこともないけども、とても愛国心があり、同じスイス人とも本当に深い友情を交わしていたのでしょう。横浜にある墓も友人一同が建立し、それだけ感謝の気持ちと友情を互いに持っていたのだと思います。なによりも時計という素晴らしいものを伝えてくださって、僕らの気持ちを和らげてくれる。これはすごい力だと思います。そして時計を通して先人の苦労を思い、感謝の気持ちがますます沸くのです」

上:フランソワが使用していた商談用のセールスマンウォッチ。 下:ムーブメントは鶴のアンクルなど細部に凝った装飾を施したモデルも製作していた。
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フランソワの想いを受け継ぐ、静謐さをたたえるオニキスを用いた日本限定モデル
日本に初めてもたらされたスイス時計ブランドとしてだけでなく、フランソワを通して日本とジラール・ペルゴはいまもより深く結びつく。その固い絆の証しとして日本限定モデルの最新作が登場した。ベースになった「1966」は、ヌーシャテル天文台の精度コンテストでのクロノメトリー受賞年から命名したラウンドケースのコレクションだ。これに限定仕様としてオニキス文字盤を採用した。
美しい鏡面仕上げの文字盤は15工程をかけてつくられる。オニキスプレートを黒色液体に約8週間浸漬した後、1週間かけて真空乾燥する。これを切り出し、研磨ディスクで手作業で正円に整える。さらに精密な切削で文字盤に加工する。この時点で厚みは当初の4㎜から0.4㎜まで薄くなる。こうして切削と薄型化し、厚みや平滑性を出した後、研磨機で回転させることで光沢を与える。さらに最終研摩によってミラーエフェクトの仕上げが完成するのである。
美しい黒艶の文字盤をより演出するため、インデックスやカレンダーは省かれ、指針とロゴ類のみが浮き上がる。正円のフォルムにセミフラットの滑らかな風防が醸し出す優美なスタイルは、静謐とともに気品が漂う。それはまさにフランソワの時代から継承する、日本の様式美にあふれるのだ。
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柴田 充(時計ジャーナリスト)
1962年、東京都生まれ。自動車メーカー広告制作会社でコピーライターを経て、フリーランスに。時計、ファッション、クルマ、デザインなどのジャンルを中心に、現在は広告制作や編集ほか、時計専門誌やメンズライフスタイル誌、デジタルマガジンなどで執筆中。
ジラール・ペルゴ / ソーウインド ジャパン
TEL:03-5211-1791
www.girard-perregaux.com