【Penが選んだ、今月の音楽】
『サッド・アンド・ビューティフル・ワールド』
“サナ活”なる言葉も飛び出すほど、高市首相を支持する若年層が急増しているという。「戦争を知っているやつがいるうちは日本は安心だ。戦争を知らない世代がこの国の中核になった時が怖い」……田中角栄元首相の言葉が否が応でも頭をよぎる。
若者に限った話ではない。嘘が容易に拡散される高度情報社会に生きる者すべてに、真実を見極め正しい声を聴き取るリテラシーが求められている。
聴くべき声。この言葉にメイヴィス・ステイプルズほどふさわしい人がいるだろうか。公民権運動のシンボル的ゴスペル・グループだったザ・ステイプル・シンガーズのメンバーとして11歳の若さで輝かしいキャリアをスタートさせた彼女は、その歌声で常に人々を鼓舞してきたアメリカ音楽界の至宝である。
ソロとしても数々の名演、名作を生み、ブルース、ロック、ゴスペルの殿堂入りを果たしたメイヴィスは、新作『サッド・アンド・ビューティフル・ワールド』でも、齢86にして滋味深さを増し、包容力に満ちたゴスペル仕込みの歌声を響かせている。シカゴ・ブルース調の冒頭からメンフィス・ソウルの終焉まで、荒涼たる音世界が広がるアメリカーナなサウンドスケープもその歌声を見事に引き立てている。
カバー曲中心のこの新作は、78年の歌手生活に寄り添うように歌い継がれたアメリカン・ソングブック集でもある。ただし、トム・ウェイツが黒人の大移動を歌にした「シカゴ」を実際に一家でその大移動を経験した彼女が歌うのだから、歌に重みがある。ゴスペルの色合いを深める、フランク・オーシャン「ゴッドスピード」然り。祈りの色彩を増す、レナード・コーエン「アンセム」然り。荒んだ世界への怒りをのみ込み、「悲しいけど、美しい」と愛や希望を伝える全10曲に、聴くべき声が凝縮されている。